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何てったって、 ひとつの笑顔にはかないません。 この笑顔を見せられたら 疲れも何も吹っ飛び、 みんなが笑顔になります。 |
2、誕生
由香は今回もなかなか陣痛が起きませんでした。
しかも予定日近くの検診ではっきりしてきたことは、どうも羊水が少ないということでした。
そして精密検査。お医者さんの結論は
これは早く陣痛を起こして産んだ法が良いだろうと言うことでした。
由香が入院したのは8月28日(水)でした。
アメリカの病院での出産。とてもきれいな個室です。
次の日のお昼には陣通促進剤を入れ始めました。
今までの出産では促進剤を使っても陣痛自体がなかったのですが、
今回は陣痛が始まりました。促進剤の量を増やして陣痛を強くします。
けれども丸1日たっても産道は1センチ以上開きません。
30日の夕方、ついに私たちは帝王切開をしていただくことに決めました。
病院では看護婦さんが交代で本当によく面倒を見て下さいました。
中にはアジア系の人や日系人の看護婦さんもいて、
片言の日本語にどんなに慰められたかわかりません。
由香が入院してからは子どもたちはホイッテア教会のファガソンさんに見ていただきました。
ファガソンさん自身も4人の子どもがおられるのに本当にお世話になりました。
お医者さんに帝王切開に立ち会うことを許可されていた寛は、
白衣と帽子、靴カバーをして備えます。ビデオとカメラもスタンバイです。
夜11時過ぎに手術は始まりました。手術を始めてもなかなか赤ちゃんは出てきません。
後で聞いたところによると、前回の手術のあと、中の臓器が癒着してしまっていて、
はがすのに大変だったとか。それでもやがて赤ちゃんが取り出され、
大きな産声を上げました。
ひとつが生まれたのは1996年8月30日、夜11時34分。
8lb. 0.8oz. 3650g の大きな赤ちゃんでした。
3、命名
和(ひとつ)は次のような経緯で命名されました。
新しく生まれてくる子にどんな名前をつけようか。
親はみんな悩むのだと思います。
私の心の中に聖書にある次のような言葉がありました。
「あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、
あなたは代々破れた基を立て、
人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、
『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。
(イザヤ書58:12)
特に『破れを繕う者』という一節です。
どこを見回しても、人と人の間に、国と国の間に、
そして神と人の間に、破れた関係がゴロゴロしています。
けれども、この子は人の破れを大きくする者ではなく、
この子がいると、そこに和が生じ、壊れた関係が修復される、
そんな子に育って欲しい。人と人をひとつにするようなそんな子になって欲しい。
「一」という漢字も考えましたが、錦織という苗字からいって、ちょっと形が悪い。
それなら意味をとって「和」という漢字を使い、読み方は「ひとつ」にしよう
ということになったのです。完全なあて字です。
学校に行っても、先生はきっと、こちらから教えないとわからないでしょう。
ちょっと大変かな?
4、入院生活
ひとつは元気に産声を上げて生まれました。
アメリカではお医者さんも専門化していて、
出産にも産科医・麻酔医・小児科医など何人ものお医者さんが関わっていきます。
どの子もそうであるように、ひとつも小児科医の先生の診察を受け、
しばらくは看護婦さんがつきっきりで様子を見ます。
その上で異常がなければ大部屋に移され、大きなガラス越しに誰でも見ることができます。
ところがひとつはなかなかその面会室には移されず、
病院のスタッフのケアの下に置かれました。
しばらくして面会が許されたのですが、それは特別の部屋でした。
手を三分間洗い(目の前に時計があります)、白衣を着ての面会です。
小さな(実際には大きな赤ちゃんなのですが)赤ちゃん。
彼には酸素のフードがかけられていました。
呼吸が落ちつくまでしばらく様子を見るとのことでした。
しかし、ひとつの呼吸はなかなか落ちつきませんでした。
かえって頭だけにかける酸素のフードが、全身を入れる酸素のケースになり、
口に直接入れるチューブになりました。
それでも見た目にも呼吸が荒く苦しそうです。
実際何度も危ないところを通ったようです。
小児科のチョン先生は何度も真夜中に彼にかかり切りになって下さいました。
生まれたのは金曜日の真夜中でしたが、日曜日の夕方になって、
別の設備の整った病院に転院させた方が良いだろうと言うことになりました。
口には酸素のチューブ、あちらこちらに電極のつながれたひとつは
なんともかわいそうでした。出産直後の由香も涙が出て止まらない状態でした。
何でも肺の中の酸素を取り込む細胞がうまく機能していないとのことでした。
日曜日の夜遅く、転院先のハンティントン記念病院からお医者さんとスタッフがつきました。
そして、ひとつは医療スタッフのつきっきりの看護と監視の下に
救急車で40分程離れた病院に転院しました。
ハンティントン記念病院に移されたひとつの治療に関しては2つのことがありました。
一つは、もし、どんな治療もうまく行かなければ、
ECMOという治療を受けなければならないだろう。
これは和の体に手術によって穴を開け、
血液をECMOの機械に入れ、そこで血液中に酸素を入れて、体に戻し、
ひとつが自分の力で呼吸できるようになるのを待つという方法でした。
もう一つは、けれども、今試験段階の特別なガスがあって、
それをひとつの体に入れてあげることによって、
肺の壁にある酸素を取り込む細胞の働きを活性化させていくということでした。
病院を移ったひとつはさっそく、その試験段階のガスを肺に送り込むことになりました。
真夜中に転院して、最初は100%の酸素を口に送り込んでいきます。
(私たちの普段吸っている空気中の酸素濃度は21%だそうです。)
車で40分ほども離れたところでもあり、
また渋滞のフリーウエイを避けるためにも、
一日に一度か二度病院を訪ねるのがせいぜいでした。
けれども病院を変わってからのひとつは順調に回復していきました。
最初は特別室にひとつ一人、看護婦さん二人が24時間つきっきりという日が何日か続きました。
けれども、ガスの効果もあって、100%だった酸素が
95%、80%、65%、60%、48%、46%、34%、26%と薄くなっていき
(酸素の濃度が下げられる度にどんなにうれしかったことでしょうか)、
ガスの装置がはずされ、金曜日には酸素の管が口からはずされ、
土曜日には保育器に入れられて、大部屋に移されました。
どうやら大丈夫と言うことで、10日間の滞在を経て、次の週の水曜日には、
もう一度近くのプレスビテリアン病院に戻ってきたのでした。
5、ダウン症の宣告
ひとつが生まれたもともとの病院に戻って、三日目のことでした。
夫婦でひとつのところに行くと、お医者さんに声をかけられ、
別室でひとつが血液検査の結果ダウン症であることを告げられました。
何か、テレビのドラマでも見ているような、ひとごとのような感じがしていました。
もちろん、私たちはひとつが神様に授かった子だと思っていましたから、
ダウン症だからどうこうという気持ちはありませんでしたが、
病院を後にする前に二人でロビーの椅子に腰掛けて祈りました。
ひとつが与えられた感謝と、これからの将来への導き、神の知恵を求めて祈りました。
由香も三日程は何かと思い出しては涙を流していました。
けれども由香もそれ以降は泣くのをやめました。
由香はひとつが生きるか死ぬかと言うときに
「神様、この子を大事に育てますから、どうぞこの子を生かして下さい」
と祈ったと言います。
やはり、祈って約束したとおりに大事に育てようと思ったのです。
寛にも不安がなかったわけではありません。
この子は大きくなっても結婚できないかもしれない。
この子はこれもできない。あれもできない。
この子は大きくなっても自分のように牧師になることはできないだろう。
そう思うと、不憫でなりませんでした。
けれどもこの子は牧師にはなれないかも知れないが、
成や宝とは違った意味で神様に仕えてくれるだろう。
いや、他の誰にもできないような方法で神様の栄光を表して行くはずだ。
そう思えてきたのです。私たちはこう話し合いました。
泣くのはやめよう。泣いてたら、
「僕が生まれてきて悪かった?」と和に思わせてしまうではないか。
こうしてひとつと私たちの歩みが始まりました。
和はその後も順調に回復し、絞っておいたおっぱいを
チューブを胃まで通して流し込んでいたところから、
哺乳びんを使うようになり、おっぱいから直接飲めるようになりました。
そしてひとつが退院したのは、生まれてちょうど二十日目の9月18日でした。
6、ひとつをとりまく環境
ひとつは大変恵まれた環境の中にあります。
まず、第一はひとつのことを理解し、励まし、サポートして下さる多くの方々の存在です。
私たちにとって、ひとつがダウン症であることを
どのように他の人たちに伝えるかと言うことは大変難しいことでした。
ひとつが三週間入院していたことを知っていた人たちには、
すぐまた心配をかけるのは忍びないことでした。
私たちは何カ月もごくごく近しい人たちにしか、ひとつがダウン症であることは話しませんでした。
3、4か月過ぎて、やっとお話しした人たちが多かったと思います。
心配をかけたくないということとともに、
ダウン症であることを知った人たちがどんな反応を示すかということも心配でした。
ある人たちは言葉を失い、なんといったらいいのか分からないという様子を示します。
ひとつがダウン症であることを知っても、
どう答えていいか分からない人たちの気持ちが私にはよく分かります。
私もきっと同じように対応するでしょうから。
でも、それが私にはつらくもありました。
「大変ですね。気の毒ですね」と思って欲しくない。それでは、ひとつがかわいそうだ。
ある人たちはひとつがダウン症であることを知ってこう言ってくれました。
「ひとつくん、この家に生まれて良かったね」。
また、あるアメリカ人の方は "I'm always on your side."
(お前たちにはおれがついてるから)と言ってくれました。
日曜ごとに会う教会の方々も、私たちを暖かく包んでくれています。
私たちとって、ひとつのことを分かっていながら普通に接して下さる方々の存在は
本当に貴重なのです。自分がダウン症の子どもを持って、
それでもある意味で、人の痛みを理解し、人を本当の意味で励ますことの難しさを覚えます。
ひとつよりももっともっと大変な障害を持つ子どもたちもたくさんいます。
そして、やはりそう入った子供たちを見るときに、言葉を失い、かわいそうと思い、
同時に「うちの子がこうでなくてよかった」とホッとしている自分を見るからです。
私は牧師です。けれども、人の痛みを負い、理解することの難しさを思います。
ひとつをとりまく環境の中で、もうひとつ恵まれていたのは、
アメリカのカリフォルニア州、ホイッテアに生まれたということです。
ここはひとつのようなハンディを負った子どもたちの教育という意味で
全米でももっとも恵まれた場所だと言えます。
ひとつが退院するとすぐに近くのリージョナル・センターから
看護婦さんやケースワーカーが来てくれて、
ひとつのために教育プログラムを作成し、
またロサンゼルス・ダウン症協会を紹介してくれました。
そして生後3か月から近くの学校の先生が来て下さって最初は月一回、
そして4か月を過ぎてからは毎週一回一時間、
ひとつのために訓練と教育をして下さっています。
ひとつの担当のヘレン先生は乳幼児教育20年という
超ベテランです。どんなことをしているかもまた紹介しますね。
7、お兄ちゃんたちのこと
ひとつには成と宝という二人のお兄ちゃんがいます。
ひとつが生まれた時、二人は7歳と6歳でした
。二人はずっと赤ちゃんが生まれるのを待っていました。
94年に由香は流産しています。何で神様は赤ちゃんを取られたのか・・・。
二人の内に割り切れないものがないといったら嘘になります。
だからなおさら二人は赤ちゃんの生まれるのを楽しみにしていました。
ひとつが生まれるとき、成と宝は三晩、教会のファガソンさんの家にお世話になりました。
そして、8月31日の朝、ひとつが生まれたことを知らせたときの
彼らの喜びようったらありませんでした。
けれども彼らは9月18日、ひとつが退院するまで近くでひとつを見ることはできませんでした。
見るとしても遠くガラス越しでほとんど見えたものではありません。
せっかく弟が生まれたのになかなか弟の顔を見れなかった成と宝は、
なんともかわいそうでした。ですが、
その分、ひとつが退院した今はひとつがかわいくてたまりません。
顔中なめ回すようにしてスキンシップを持っています。
先日もある方が「ひとつくん、かわいくなったね」と言うと、間髪入れずに
「かわいくなったんじゃない。最初からかわいかったんだ!」
と言っていました。
大人もたじたじです。
私たちにとってもう一つの心配は成と宝がどのように
ひとつのダウン症のことを受けとめられるだろうかと言うことでした。
今の所は和は他の子供たちとほとんど見分けがつきません。
(見る人が見ると分かるようですが)。
上のお兄ちゃんたちにはまだ詳しい説明をしていませんが、
少しずつ彼らに分かる言葉で説明してやらないとと思っています。
まん中の宝(6 歳)のクラスにはときどきとなりのクラスにいる
ティーチというダウン症の子どもがいます。
宝は「ひとつはティーチに似ている」と言います。
「ひとつはティーチの仲間だよ」と言うと
上の成(7歳)は「そんなことない」とあわを吹いて怒ります。
でも成も何かを感じているのでしょう。こんな夢を見たそうです。
--- ひとつくんの顔がおかしくなって、悲しくなって大声で泣いていた---。
クリスマスを前にしたある日にも、家内と成がティーチとひとつのことを話していました。
「ダウン症と言って、いろいろなことをするのに時間がかかるのよ」。
成「赤ちゃんってみんなそうなの?」
「ティーチは普通の子とどこが違うの?」。
子どもなりに少しずつ受けとめていってくれると思いますが、
時間がかかるかもしれませんね。
きっと上の二人も優しい子に育ってくれることと思います。
また事後報告いたします。
8、その後の成長記録
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